なぜ競馬新聞が不要か

前回も少し触れたが、新聞の印はかなり以前に決められているという点だけでなく新聞という性質上、多くの人間が仕事として関わってしまっている事が問題なのだと思う。

「仕事」として人が関わる以上、何かしらの都合や調整が不可欠となってくる。

決して八百長がどうこうの話ではなく私も一介のサラリーマンとして働いているので心情はよくわかるのだが、、馬主・調教師・厩舎職員・騎手・記者・トラックマンなど様々な立場の人が関わる為、全員が事実だけを伝えていては関係性や仕事に支障が出てくるのも至極当然の事。

 

仮に私がトラックマンや記者だったとして、調教師・厩務員と末永く良い関係を築こうと思えば管理している馬の調教状態が多少悪く見えても「馬体に張りがあり闘志を感じる」など当たり障りの無いコメントを発表するだろうし、私が調教師や騎手なら馬主との関係性を考慮して例え駄馬でもそう悪くは言えないはずである。

 

話は変わるが「調教状態」を指数化している新聞・予想家・予想会社があるが、かなり無理があると感じる。

天候による調教馬場状態の悪化などもあるが、実際の調教で馬が背負う斤量は公開の義務が無いらしい。

だから一見動きが重そうに見えても負担重量が重いのかもしれないし、逆に素軽く見えても斤量が軽いのかも知れない。

さらに調教タイムにおいてはデジタル化が進んだこのご時世に目視による計測でしかない。

目視による計測でコンマ何秒が毎回正確に測れるとは到底思えない。

 

ただそれを紙面で見てしまうと多くの人は印象に刻まれてしまうのではないだろうか。

記者のコメントもまた然りだろう。

 

何より、以前の私がそうだった。

 

今も競馬場に行くとよく耳にする「なんだよ~あの馬。あんな馬買えないよ~。」などの嘆き。

私も何度も味わった経験がある。

調教コメント欄の「絶好調」的な馬が凡走し、「今回は消し」「一度使ってからだね」などのコメントが書かれた人気薄馬が激走する。

 

なぜか。

 

新聞は多くの人達が仕事として関わってしまっているからである。